人間は絶えず煌めく

一部抜粋

2026

 さらに突然駐車場にすごい勢いでオデッセイが飛び込んできてしかし大変丁寧に白線の内側で停まった。七月火曜日午後三時。乱暴にドアが開き中から薄い顔をした若い男が出てきた手の甲で鼻の下を拭い辺りを見回した。広大なアスファルトまばらな車薄い雲せからしい蟬たち瞬く緑。若い男はこの光景を生涯忘れないと頭の端で確信したが彼がそれを思い出すことはこの先二度となかったしかし男は汗を拭う手の甲の感触を三十五年後脳から血が出て死ぬまでの間に幾度も繰り返すことになる。それは記憶から切り離された純粋めいた感触だ。選ばれたわけでもないのにある記憶は奥底に沈澱するうちなぜか不意に身軽になるそんな感触へと変わる。それはいわゆるノスタルジックな懐かしさなどではないもっともっと強烈な肉体そのものの懐かしさだ。我に返ったように男が歩き出した。なぜか小走りになれないいつもの歩み。異様に汗をかいた。自動ドアが開き強烈な冷房がこれから父になるいや正確には二十六分前に父になった若い男の身体を一気に冷やした。天井の高い広すぎるロビーを突っ切りエレベーターの前で彼は立ち止まった。車椅子の患者がぶつぶついいながら上昇ボタンを連打していた。男が舌打ちした。患者が振り向いて小さな声で呪詛のことばを吐いた。ロビーの長椅子に座り若い男を目撃する三人の男がいた。男たちは揃いも揃ってボロボロの黒いスーツに穴だらけのブーツという出立ちであたかも外の闇からやって来たみたいだった手には何も持っていなかった。真ん中に座る男は顔が一面髭で覆われ目はじっと若い男の背中を見ていたそれに彼はまるで気づいていなかった。右の男は薄ら笑いを浮かべ貧乏ゆすりをしながらやはり若い男を見ていた。左の男は唯一目を逸らし虫でも這っているのか必死で背中を搔いていた。髭の男が二人に何かをいった。ピンと音がしてエレベーターが来た。車椅子の患者が入り次いで若い男が入りすこし間が空いてゆっくりとドアが閉まった。三階の廊下を歩きながら男の耳には既に赤ん坊の泣き声がきこえていた耳を塞いでもきこえていたおれの頭の中だけで鳴っている音だとお前らはいうがおれにはおれの子が必死に声を届けようとしているうまく届かないからこそ何とか届けようとしているそうとしか思えなかった。看護師に導かれ白衣マスク帽子を身につけ彼は二人が待つ分娩室へと入っていった。湿った空気。誰よりも優しく誰よりも危ない顔で赤ん坊を抱く妻。クラクラした。彼に気づいて彼女が一気に笑顔になった。こんなにも急に顔は変わる。ありがとう、ありがとう。赤ん坊は音もなく眠っていた。病院の者たちが彼ら三人を取り巻いて祝福のことばをかけた耳が一切それを通さなかった。熱と震え。若い父が息子を腕に抱き優しく揺すっていた。ありがとう、ありがとう。深海に差し込むかぼそい光。小さい、思ったよりずっとずっと小さい。そのすべてをじっと見た。ちんこがすごく小せえ。同じ頃、黒いスーツの三人は建物の外に出て空白だらけの駐車場を突っ切っていた。酷い暑さだというのに彼らはまるで汗をかいていなかったその代わりに全身がざらつく砂埃に塗れていた。一行は白いオデッセイのすぐ脇を通り過ぎ敷地の外へと出ていった病院すべてがホッとした。髭の男が大事な何かを呟いたしかし後ろの二人は上の空でまるできいていなかった。左の男がまたも背中を激しく搔きむしった血がドバッと滲んだ。髭の男がニヤリと笑って振り向いたが何かいうのをやめすぐに無関心そうな顔に戻り前を向いた。ゆっくりと三人がそこここから遠ざかっていった。このときばかりは蟬たちも鳴き喚くことを遠慮していた。

   

 先月仕事をやめてからの彼といえば、朝八時半彼女と一緒に家を出て国分寺駅へ向かい改札にて立川の法律事務所へと出勤していくその背中を見送ると駅を抜け一キロ先の国分寺史跡に通うのが習慣となっていた。改札で別れる前に彼女はたこすで奇妙に膨らんだトートバッグを持ちパジャマの上に直接コートを羽織ってよしとするみすぼらしい夫の姿を改めてじっと見た。もし高校生の自分に、
 将来の夫は……こいつだ! とニヤニヤ笑う牧野さんを披露したら、
 ええー! もうちょっと何とかならなかったの!?
 とショックを受けるに違いなかった。彼女は改札を抜け振り向いて彼に手を振ると職場に急ぐ人たちの波に乗り左手の階段を降りていった。でも夫にそんな恰好をさせているのは妻の責任だ! なんて誰かにいわれるかもしれないと彼女は呟いた。知らねえよ! 大体牧野さんはわたしが散々いっても大事なのは中身だとかほざいてオシャレをする気が全くない。服屋に行くとそわそわして店内を高速でうろつき始める。いや、そんなことより東京地方裁判所にお使いに行かなきゃならないから今日は重い。ホームに着くと既に電車が停まっていて発車のメロディーが鳴っているところだった。身体の硬い男が走ってきて溢れかけた車両に尻を無理やりねじ込んだ何度も苦戦してやっとドアが閉まった。彼女はホームの端まで歩き一本やり過ごし次に来た電車に先頭で乗り込むと通路の奥へと進んだ。朝の中央線はやはり名古屋の地下鉄とは次元が違うと小さな声で呟いた。この頃彼女は思う代わりに呟くようになっていた。名古屋ではどれだけ混んでいても人が人としてありうる最低限のスペースが確保されていた。だけどどういうわけか車内でAVを見る老人がやたらと多かった。電車が動き出した。窓外にマンションオフィスビル民家が代わる代わる立ち現れ雲のない空だけが動かずにいた。暖房が前髪らした。コートの前を開けた。彼女の目が空を見ていた。それにしても……名古屋で働いていたときのわたし、過労で今より七キロ痩せていたわたし、結婚する前のわたし、大学生のわたし、テニス部のわたし、いつも河川敷にいたわたし、将来の夫を夢想して興奮していたわたし、そんなわたしたちのことをわたしは少しも思い出すことができない。いや思い出すこと自体はできる。しかしちっとも鮮明じゃない覚束ない懐かしくない。無数のわたしたちはこのわたしとまるで別人みたいだ。もしやわたしって過去のわたしたちに冷淡? あ、これ小説になる。ハッと彼女の背筋が伸びた。ぶうううと誰かが放屁した。電車が立川駅に着いた。降りる波に身を任せ彼女もホームに降りた今度は波に逆らい近くの柱に寄りかかるとカバンから使い古したノートとペンを出した。
・過去のわたしたちに冷淡なわたし
 そう小さく書いて彼女は職場へと歩き出した。

 彼は彼女と別れると駅の南口を出てロータリーを迂回しそのまま府中方面へと南進した。脚が勝手に動くのは道に慣れたからだ。慣れってなんだ? 坂を下り小さな橋を渡り激しい車通りにもかかわらず歩道のない道を行き途中で西に折れて住宅街へと入っていった。このところ十一月にしては静温な日が続いていた見上げると空は遠くまで青く宇宙が透けて見えた。宇宙と深海は似てるという。しかしおれは深海の方がずっと好きだ得体の知れないでかいイカや古代魚にぜひとも会ってみたい。二階建ての新築冬枯れした畑古びた保育園子どもたちの声すれ違う老人たち。十分ほど行くと裸木に囲まれた公園らしき広大な土地を彼の目が捉えた。
 国分寺史跡は石と樹の他は何もないがらんとした空き地でしかし寂しげな様子は少しもなかった。誰もが公園と勘違いするのだが史跡ゆえに遊具の類はなく巨大な直方体の石がいくつか転がっているばかり。その歴史を語る石碑が真ん中にポツンと立っているものの表面が擦り切れ何と書いてあるか判然としなかった。彼は入口近くの直方体の石に腰を下ろすとトートバッグからたこすを取り出し横に置き次いで彼女の本棚からとってきた文庫本を手にしたが読むことはなくぼんやりと辺りに目をやった。子どもの姿は滅多になくいつも老人ばかりが集っていた。今日はまだおれだけ。いやカラスはいた。三羽のカラスがお喋りをしながら飛び交って彼を見下ろしていた。
 昔ここに国分寺があった。貴族の邸宅があった。みんな死んだ。と彼は呟いた。仕事をやめてから独り言が増えた。信じられるか、たこす。
 オイラ、ソンナコトヨリツマンナイヨウ! モット楽シイトコロニ連レテッテヨウ! とたこすが嘆いた。
 ぼおっと人気のない史跡を眺めているとどういうわけか彼は自分が誰でどこにいるのかわない浮遊を味わうのだった。そんな不明を感じるために彼は毎日ここに来ていた。それは名古屋の映像制作会社で働いていた妻のみなもに会うために頻繁に東京と名古屋を往復していた一、二年前に何度も感じたあの浮遊にそっくりなのだった。おれがおれを見ている幽体離脱遠ざかるのに近づくふしぎな凪くつろいでいて苦しさはない虚ろで恍惚。しかしのめり込みすぎると危険なのはどこかでわかっていた。
 ネエモウ行コウヨ。ココハオイラニ似合ワナイ! またたこすが叫んだ。
 いやいや叫んでいるのはこのおれだ。ほんとに? 我に返って彼はたこすを見た。微動だにしないたこす。立川のイケアで購入した大きな黄色いタコのぬいぐるみ。一六五〇円。八本の脚には吸盤が並んでいて海を泳ぐ野生のタコたちにも遜色ない。去年の八月末に彼と彼女は結婚し一緒に住み始めた。牧野は二十四歳、みなもも二十四歳、ともに初婚だった。家具を買いにイケアに行き二人はたこすに出会った。最初にたこすを愛したのは妻だった。かわいいかわいいと盛んにいい夜は抱いて寝た。すぐにたこすはことばを覚えた。彼女の裏声を通してたこすは喋るのだった。
 オイ、牧野! オマエ老ケ顔ダナ! 
 失礼な! といって夫は微笑みを浮かべた。
 すぐにたこすは夫の裏声も借りて喋るようになった。
 ミナモ、ミナモ。オ皿洗イシテヨ。
 えー、ちょっと待って。
 オ願イ! オ皿洗イシテヨ!
 わかったよ。たこすがいうならやるよ。
 夫に反撥することがひとつの生甲斐である妻もたこすのいうことなら素直にきくのだった。彼女は彼の着古したアロハシャツを解体し裁縫したこすの衣服をつくった。やがてたこすはトートバッグに入って二人の旅行についてくるようになった。結婚式を挙げない代わりに撮ったウェディングフォトにもたこすは写った。いつの間にかたこすは夫婦の間にすっぽり収まるようになった。
 彼はたこすが生きているようにしか思えなかったしかし凝視するとそれは血の通わないただのぬいぐるみだ。色褪せくたびれた薄汚いタコの似姿だ。だがそんなこと百も承知でたこすは生きていた。死んでいるから生きていた。動かないから動くのだ。しばらくして、
 よし、帰ろう。
 オイラ、眠クナッテキタ……。
 座ったままでいると流石に身体が冷えた。彼は立ち上がると乱雑にたこすをトートバッグに詰めた

 

続きは書籍にて

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