すべてのことばが起こりますように
一部抜粋
2024
1
しかしただ矛盾していればいいというわけではない。黒と青が混ざる浜。朝四時。生き物が生まれるそのとき発する匂いはひどく生臭い波の大きな音突風オオミズナギドリの群れ透明な殻白く剥けた流木ひとりの男が大の字になって眠っていたその下半身をやっと波が飲み込んだ。大柄だがひどく痩せた身体。坊主頭。無精ヒゲ一つないツルリとした浅黒い顔。なんだこの顔はなんだこの身体はちくしょう何がいいたい! 今度こそ波が男の全てを捕らえようとしたとき男は既に立ち上がって背後の胸壁へと歩き出しており灰色の砂の上に楕円形の水溜りをいくつも残そうとしていた。細かな草。割れたペットボトル。フラフラ歩くのは寝起きだからではなくいつものことだった。不意に男は立ち止まるとゆっくりとジーンズとパンツを膝まで下ろし新たな水溜りを足の間につくり次いでジーンズパンツスニーカー靴下を脱ぐと液にまみれたそれらを前方へ静かなまま思いっきり投げた。おはよう、おはよう。振り返ると町と浜を区切る高さ十メートルの分厚いコンクリートの壁に向かって再び歩き始めた。男が浜に来て七日目の朝のことだった。
ある一定の間隔で壁には長さ七メートルほどのトンネルが穿たれていた。トンネルの中は外よりずっとヒヤリとしていた。男が歩くと足元でカサカサと小さな蟹や虫が這い回る音がした。それより大きないびきの音もしていたが男にきこえていたのは繰り返される波の音だけでそれらは重なっては離れ離れては重なりいつの間にか男はその無際限のリズムを全身に響かせるようにして歩いていた。男は出口の付近で立ち止まるといびきの主のすぐ前にしゃがみ込んだ。このトンネルを寝床にする七十歳の小柄な老人。皆からはダコと呼ばれていた。男はブルーシートに包まって眠るダコに声をかけたが老人は呻き声をあげ寝返りを打つばかりで中々起きなかった。揺すぶることはせず男は自然にダコが目を覚ますのを待った。しばらくしてダコの目が薄く開いた。すさまじい勢いでダコの頭が動き出し言葉になる前の何かがその目や鼻や口から次々と飛び出ようとした。しかしダコはそれらを必死に押し留めた。
「もう行くか、ウジャマ」
としばらくしてダコはいった。
「ああ、行く」
「そうか」といってダコは少し黙った。
目ヤニの溜まったダコの目を男の茶色い目がじっと見つめていた。
「いや何でもない」
「夜明け」男は立ち上がると自分の裸の下半身を指差した。「何かくれないか」
ダコは男の股間を見て眩しそうに目を細めると肘をついて身を起こし枕代わりにしていた新聞紙の束をガサゴソと探った。浜の方から白っぽい日が差し込んできていた。今日もまた暑い一日になりそうだった。男はダコからビーチサンダルとジャージのパンツを受け取ると下着もつけずに履いた。
「ありがとう」
男は微笑みを浮かべると出口へと歩き出した。
「遠い日、遠い日に」
老人が小さな声で呟いた。
不意に男が振り向いた。ダコは躍起になってさっきまで見ていた夢の中へと戻ろうとしていた。
トンネルを出て急な階段を登りしばらく裏路地を右に左に抜けていくと松の生える小さな公園に突き当たった。男は錆だらけのブランコを見つけると近づきさっと座板の上に飛び乗って立ち漕ぎを始めた。膝を曲げタイミングよく伸ばしあっという間に男はすごい速さで揺れる振り子となった。鎖が軋み支柱がキイキイ鳴り男は今や真円を描きだそうとしていた。そして男が限りなく頂点に近づきその棒みたいな身体が宙に弾かれ地面に激突し骨が砕け脳が飛び散るかと思われた次の瞬間、男はくるりと一回転した。
⌘
ウジャマ? 知ってますよ。ええそうです。彼とは中学の同級生でした。同じクラスになったこともあります。最後に会ったのは成人式の日でもう七年も前のことですか。大学を辞めるんだか辞めたんだかそんなことを話した覚えがあります。様子? いや別に普通でしたよ。元々寡黙な方だったしうん特別何か印象的だったこともないです。そうそうウジャマはいいやつでした。それもすごくいいやつ。結構頭もよかった。え? いやまさか本名なわけないじゃないですか。どう見ても日本人じゃないですか。あ、そうそう。確かにこいつはウジャマです。懐かしいな大人になった精悍な顔つきになった。記憶の中のウジャマはもっとこうふっくらしてるんです。え? あ、そうです。苗字が内山だからウジャマです。変なあだ名でしょ。内山……何だっけ。タダシかタカシのどっちかだな。うーん思い出せないですすみません。あ! 一度内山の父さんがキャッチボールをしてくれたことがありました。内山と内山の父さんが公園でキャッチボールをしていてそこにおれたちが入れてもらったんです。内山の父さんビュンビュンってまるで手加減しないで投げてくるんですよ。お前ら腰が引けてるぞって笑われたな。あのときの内山何だか恥ずかしそうにしてた。
⌘
七月初旬の昼過ぎ、誰もがひどく汗ばんでいた。駅のホームのベンチに座りウジャマはしばらく目を閉じていたが寝ていたわけでも考え事をしていたわけでも郷愁に浸っていたわけでもなかった。こういう時間がウジャマにはよくあった。東海道線の各駅停車しか停まることのない小さな駅。ダコに貰ったジャージのポケットには折り目一つない一万円札が入っていてそれでウジャマは新宿駅までの切符を買った。ゆっくりと目を開けるとすぐ隣にシワだらけの小さなおばあさんが座っていた。暑いねえとおばあさんがいった。汗の滲む花柄のブラウス。わたし明日で九十なの。だからわたしもう好きなことをするのわたし山頭火みたいにあっちこっち放浪してやるんだそう決めたの! 放浪? とウジャマが訊いた。そう日本全国を旅するのがわたしの夢だったのでも去年死んだ旦那と結婚して子どもが生まれるとそうもいかなくなった。ほら昔と今は違うでしょう。ああ今の子たちがほんと羨ましい! パチンコ玉みたいな小さな黒い目がウジャマをじっと見つめていた。ああ暑いほんとイヤになっちゃう! そういっておばあさんはカカカと笑った。ねえお兄ちゃんこう見えてわたしいっぱいいっぱい土地を持ってるの。町内会の会長だって何度もやった。わたしどんなに怖い人が来ても追い返してやった! ねえお兄ちゃんわかる? これよこれ。おばあさんは手を伸ばすとウジャマの頬を乾いた指先で素早く撫でじっとウジャマの目を覗きこむとクスクス笑った。ややあって上りの電車がやってくるとウジャマは手を貸しておばあさんと一緒に乗り込みちょうど空いていた端の方の席に隣り合って座った。旅だ放浪だとおばあさんがはしゃいだ。
十五分ほど乗っているとおばあさんがウジャマの肩を突いて次で降りるといった。平塚駅で下車し改札を出たところでおばあさんは立ち止まった。どうしたとウジャマが訊いても先ほどとは打って変わって黙りこくりそっぽを向いてしまった。しばらくして向こうから六十歳くらいのヒゲを生やした大きな男が歩いてきて手を振りそれを見たおばあさんが満面の笑みになった。男は来るとウジャマを無視しおばあさんの耳元に身を屈めママ会えてよかったと囁いた。おばあさんが何度も肯いた。旅がもう終わった。ウジャマは二人の向こうにある何かを見るともなく見ていた。やっと男がすぐ近くに突っ立っていたウジャマに気づいた。
「サンキュー」と男はいった。右手で顎ヒゲを触りながら笑って「あ、シェイシェイ」
二人は一礼すると南口の方に去っていった。
駅前をしばらくうろついた後ウジャマはロータリーを迂回して真っ直ぐ北へと伸びる道を歩いていった。大きな白い雲。淡い青空。薄暗い商店と居酒屋とラーメン屋が並ぶ商店街を抜けると道ゆく人は減り代わりに車の数が目に見えて増えた。新築の二階屋ばかりの一角では道が入り組んでいる上に行き止まりが多くてウジャマは同じところを何度も行ったり来たりした。ようやく抜け出すと小さな川に架かる橋が見えてきた。橋の手前で右に折れ川沿いを歩いていくことにした。川は緩やかにカーブしながら北の山の麓へと続いていた。ウジャマの目が北の向こうに霞み立つ山々を捉えた。一時間ほど行くと庭を石塀で囲った背の低い民家が目立つようになってきた。多くの家がすぐ近くに畑を有していたがその殆どは荒れ放題になっていてひび割れた灰色の土から緑濃いメヒシバが爆発したように繁茂していた。外にいるだけで誰しも汗が噴きでる陽気になっていたがウジャマは汗一つかいておらずそれどころかどういうわけかもう何日も飲まず食わずでいた。あの浜に着いたのがちょうど一週間前でその最初の日にダコからカップ麺をご馳走になってそれ以来というのだからきちんと数えるとここ六日間は何も口にしていなかった。しかしウジャマはきちんと数えることなど決してしなかったしそんな調子でいたからこそ身内に巣食う飢えに気づかないでいられた。といってもやはり骨や臓物は物はいわないが信頼のおけるものでウジャマの足はゆっくりとだが確かに止まりつつあった。
さらに行くと民家は消え広大な畑ばかりが辺りを領するようになった。人通りは絶えて久しくまるでウジャマが一歩進むたびに時間が逆行しているかあるいはとんでもない速さで進行しているかのようだった。事実そうなのかもしれなかった。文明の灯火から最も隔たった懐かしい未来にウジャマは迷い込んでしまったのかもしれなかった。しかし当のウジャマはそんな憶測などどこ吹く風で相変わらず鼻歌を歌いながら刻々と重くなる足をせっせと前へ進めていた。
数時間後、ウジャマは忽然と現れた小ぶりな林に入り込んだ。何より目立つのは等間隔に植えられたサルスベリの樹々でそれらは赤い花を嬉しそうに咲かせその間を縫うように低木や雑草が我先にと丈を伸ばしていた。ウジャマはゆっくりと仄暗い木々の間を進みやがてサルスベリの根元に泥と苔に半ば隠された三十センチ四方の石のプレートがいくつも埋まっているのを見つけた。よく見ると夥しい数のプレートが辺り一帯に散らばっていた。冷たい花崗岩を養分にサルスベリたちは育ったようだった。ウジャマはしゃがみ込むと正方形のプレートについた汚れを注意深く落とした。中央に細い角張った字で〈ヤマグチ・ヒカリ〉と刻まれていた。他のプレートも探った。〈ミヤザキ・ショウタ〉。〈オガワ・トシキ〉。全てのプレートにそれぞれ見知らぬ人の名が刻まれていた。ウジャマは彼らのことなど誰一人知らなかったし彼らもウジャマのことなど知る由もなかったがそれでいてどういうわけか辺りに親密な雰囲気が漂い始めた。じっとウジャマは目を閉じていた後、ヤモリのように四つん這いになると体力が尽きるまで石のプレートにキスをして回った。
林を抜けると見渡す限りにこれまでよりずっと荒れ果てた畑が広がっていてそれを二分するように一本の畦道が遥か先までまっすぐ伸びていた。人気はまるでなく鳥や獣たちまで息を潜めているみたいだった。じっとウジャマは前方を見つめた。無人の畑から五本の細い煙が音もなく風にたなびき色を失くしつつある空へと昇っていた。
陽が衰え世界がみるみる黒ずんでいく頃ついにウジャマの足が止まった。とうにサンダルは壊れもうずっと裸足で歩いていた。黒くむくみ血の滲んだ足。脆くなりひび割れた爪。ちっとも寒くもないのにウジャマはブルブルと震えていた。口から絶え間なく漏れるため息。呆れるほどの広大さが丸ごと闇に没しようとしていた。街灯など一つもなく目の先には真っ黒い北の山が殆ど垂直にそびえ振り返ると遥か彼方に人家の明かりがぼんやりと滲んで見えた。右足を出し左足を出しまた右足を出しゆっくりとウジャマは足を引きずりながら進んだ。
もう真っ暗だった。山道に差し掛かる直前の脇道の闇の奥に何かがある気がしてウジャマはそちらに折れた。当たりだった。数分歩くと蛇腹造りの門扉に突き当たりその向こうによく見えないが確かに何らかの建造物があった。手をかけると門は耳障りな音を立てて開いた。生え放題になっていた庭の雑草を掻き分けて進みついに粗末な平屋に辿り着いた。僅かに開いていた玄関の引き戸を力を込めて開けた。中はヒヤリとして埃と獣の糞尿の匂いがした。靴のまま廊下に上がろうとしたその瞬間背後から撃たれたようにウジャマは廊下に倒れた。鈍い音がして埃が舞いあがりポケットから五十円玉が転がり出て三和土の上に軽やかな音を立てて落ちた。やがてコインは壊れた靴箱にぶつかると完全に動きを止めた。もうそのころにはウジャマはとっくに眠りの中にいた。
その後ウジャマは何日もの間廊下に寝たきりで過ごした。どんなに力を込めても身体は少しも動かなかった。かなり早い段階で起き上がることを諦めひたすら眠ることに没頭した。陽が出ているときに束の間目を覚ますと無数の亀裂が走る天井に見入りそこに生命の痕跡を探した。
六日目の朝のことウジャマはふうと息を吐くとひょいと起き上がった。全身の傷は癒え気力も体力も十分に回復していた。庭に出てそこら中に繁茂しているイヌビエを両手いっぱいにむしり生のままむしゃむしゃと食べた。満腹になるとそのまま大の字になって雲一つない青空を見上げウジャマはにっこりと笑った。家に戻ると初めて内部を探索した。四十平米ほどの2DK。素人が独学で建てたのか壁も床も歪んでいてただここにいるだけで目眩がしそうだった。短い廊下の正面が台所でその奥に六畳の部屋が横に二つ並んでいた。家具の類は一切なくフローリングは朽ちてザラザラとした合板が剥き出しになっていた。そこら中に黒々としたネズミの糞や虫の死骸が散らばりしかしどういうわけか蜘蛛の巣は一つもなかった。流しのシンクには雨水が溜まっていて透明な水を透かして黄色い落ち葉が二枚底に沈んでいるのが見えた。すごく静かで穏やかだった。ウジャマは落ち葉を見つめたまましばらくじっと立ち尽くしていた。遥か昔に町から忘れ去られた古い地区。いや実はその逆でこの地区こそがとうに町のことなど忘れてしまったのかもしれない。
ウジャマは左奥の部屋に入った。台所から死角になっていた左の壁際に黒の革張りの高級そうなソファが一つだけ取り残されていた。座面が擦り切れスプリングもいくらか飛び出ていたがまだまだ十分使えた。夜になるとウジャマはそこに横たわって眠り、昼過ぎ庭に出るとイヌビエの茂みに埋もれ鼻歌を歌いながら飽きることなく七月の空を眺めた。もう今では憑き物でも落ちたように北の山を凝視することもなくなった。
ある日のことウジャマは庭の裏手に小さな池があることを発見した。もうずい分ここにいたというのにまるでそのことに気づかなかった。それを恥じた。池にはミシシッピアカミミガメが沢山いて水面から突き出た石の上で気持ちよさそうに甲羅干しをしていた。そのうち一匹がウジャマに気づいてフンと鼻を鳴らした。ウジャマがしゃがみ込んでカメたちに顔を近づけると一斉に彼らは水に飛び込んだ。水面が揺れその奥に何かがあるのにウジャマは気づいた。冷たい水中から引っ張り出したそれは泥にまみれたB5サイズのノートだった。普通溶けて分解してしまうところを泥が真空パックの役目を果たしたようだった。表紙には〈DIARY〉と辛うじて読み取れたが肝心の中身はとうの昔に水の中に溶けカメたちの血肉へ変わっていた。ウジャマは二日かけてそれを天日干しにし三日目の夜にソファに座りながら月明かりの元で波打つページをゆっくりとひもといた。言葉は溶け文字は滲んでしまっていたがウジャマは何度も何度もページをめくってはめくった。十四ページ目に一ヶ所〈七月二十六日 サッキきゅうト入籍シタ〉とはっきり読み取れるところがあった。右肩上がりの下手クソな字。その筆跡を指先でなぞった。他にも僅かにインクの残ったところがあった。異様な熱心さでウジャマは空白の日記をじっくりと見た。顔を上げると夜が明けていた。
その日の朝ウジャマは家を出た。一度も振り返ることなく南へと引き返していった。時間がいつもの退屈さに還った。昼過ぎ国道に合流ししばらく国道沿いの狭い歩道を東に進みやがてイオンモールを見つけると敷地の中に入った。尻の間に隠していた五千円札を使ってユニクロで靴下とTシャツを買いABCマートで見たこともきいたこともない格安ブランドのスニーカーを買って履いた。一階のスーパーで残った三百円でペットボトルの水と六枚切りの食パンを一斤買った。建物の横手に芝生の広場があり今日はいくらか涼しいからか小学生たちがはしゃぎ回り家族連れがレジャーシートを広げて昼ごはんを食べていた。小さな丘の斜面にウジャマは腰を下ろし何も塗っていない食パンを生のまま一枚また一枚と食べた。すぐ近くで二十代半ばの男女が人目を気にせず何度も舌を絡めて長いキスをしていた。しばらく風呂に入らず汗や埃にまみれていたのにどうしてかウジャマは悪臭を放つことなくむしろ枯れ草のような心地よい匂いを漂わせていた。ひどくみすぼらしい見てくれなのに口を窄めて笑っている様を見ているとどことなく可愛く見えてくるのだからほんとうにふしぎだ。一斤食べ終わるとウジャマは立ち上がり微笑みを浮かべ楽しそうにお喋りをする人々の間を歩き出した。彼らから幸福が舞い上がり広場中を優しく満たしていた。ウジャマはさっと右手を振りすぐ目の前をふわふわと横切っていたシジミチョウを指先に捕まえるとすぐ近くを漂っていた彼らの幸福と一緒にしてひょいと口に入れた。
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もちろん京子のことはわかるよ。だってそりゃ友だちだったから。うん、内山京子。正くんのお母さん。わたしたち家族ぐるみの付き合いで、息子の敏行と正くんだってほんと仲が良くていつ見ても一緒にいたんだから。え、ウジャマ? それは知らない。わたしにとっては正くんは正くん。内山正くん。そんなウジャマだかウチャマなんてのは知らない。まあでも京子が出ていってからのことは正直にいってよくわからない。そう敏行と正くんが高校二年生のとき。京子、わたしに一言も何もいわないで出ていっちゃったんだからね。まだわたし根に持ってるの。性格悪いっていわれても知らない。悪いのは京子なんだから。だって今でも京子がどこにいるか誰も知らないんだから……まあねえたしかに智さんはちょっと難しい人だったから京子が逃げたくなる気持ちもわかるし正くんだっていきなり二人になって色々大変だっただろうし、よその家庭にあれこれいうのは良くないけど父と息子が二人きりってのも中々ねえ。怒鳴り合う声がきこえてきたこともあったし智さんのお酒の量もずい分増えたっていうし。え、いいよこんなに。悪いよいいって。カルボナーラの分だけ払ってくれればいいって。うんそうそれでいい。悪いねありがとう大したこと何もしてないのにね。うんもう帰る。十五時にニトリが届くのよ置き配できないのよちゃんと受け取らないと。え、あんた見た目のわりに中々大胆だね。
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藤沢駅北口の駅前デッキにはかなり大きな円形広場がありそこには意味や目的から解き放たれた人々がよく集っていた。円の縁に沿って並ぶベンチはいつもそんな彼らでいっぱいだった。八月半ばの暑い夜そこにウジャマの姿があった。ここ数日ウジャマは日が沈むのと入れ替わりにどこからかやってきて決まって駅側のベンチに腰を下ろすとずい分長い間じっと目を閉じてそこに座っていた。月はおろか星一つ見えない曇り空。もうじき驚くほどあっさりと日付が変わり今度もまた昨日の自分と今日の自分の境目は決して捕えられることなくスルスルと背後の世界に逃げ去ってしまうだろう。酷い暑さのせいか広場にはウジャマの他にもう一人男がいるだけだった。毎夜十一時きっかりにやってきては広場の中央でひたすら腕立て伏せを続ける筋骨隆々の男。今日もまた過酷なトレーニングは佳境にさしかかっていた。
「あ、ほんとにいた」
突然すぐ近くで声がしてウジャマは目を開けた。スーツ姿の小柄な若い女がベンチの前の誰かが置いていったらしい折り畳み式の椅子に腰をかけているところだった。女はひどく酒臭かったがその顔はむしろ青ざめていた。コーチのハンドバッグと酒缶を少し迷ってから椅子の脇の床に直接置いた。ウジャマが顔を上げた。不意に弱い雨が降り出してきた。
「ザメさん!」女が叫んだ。「わたし、今日仕事辞めてきました!」
そういうと女はけたたましく笑いだした。気がつくと目尻から涙が垂れ女は笑いながら泣き出していた。山の天気みたいに女の表情はころころ変わりそれをじっとウジャマは見つめていた。涙だと思ったそれは顔を打つ雨粒だったのかもしれずそもそも笑っているわけでも泣いているわけでもないのかもしれなかった。女が真顔になった。
「え、ザメさんですよね。聞き屋のザメさんであってますよね」
そういうと女はウジャマの背後を見た。〈聞き屋ザメ お話ききます〉と黒の太字で書いてあるお手製の段ボールの看板。段ボールの乾いた黄土色の表面に小さな黒い斑点が音もなく増えた。
「違う」
「え」
「おれはそいつじゃない。ウジャマ」
「ウジャマ?」
「ウジャマ」
「え、外国人の方ですか。ベトナム? タイ? フィリピン?」
「違う」
「それじゃあザメさんの知り合いですか。あ、ザメさんに話をしにきた人ですか」
「違う」
そういってウジャマは微笑みを浮かべた。ウジャマが笑うと女も笑った。今度はちゃんと笑っていた。じゃあ何ですか。何でザメさんの代わりにここにいるんですか。女がクスクス笑った。あ、わたしはコゴエです。いや本名じゃないです初対面の人に名前なんて教えるわけないじゃないですかそれはウジャマさんだって同じじゃないですか。いやウジャマはウジャマだ。コゴエはウジャマを無視して続けた。毎週木曜日にこの広場で聞き屋をやってる人がいるんです。コゴエがスマートフォンの画面を見せた。ウジャマの座っているベンチと段ボールの看板。「聞き屋ゲリラです。本日、今からしばらく藤沢駅前広場いつものベンチにいます! どんな方でもお待ちしております」。その告知は今日の十八時にSNSに投稿されたものだった。ウジャマが広場に現れたのは十九時のことでつまりザメが陣取りその後離席したタイミングで何も知らないウジャマがその席を奪ってしまったということらしかった。だとすると全てをほっぽりだしてザメはどこに行ってしまったというのか。
「聞き屋って何」
とウジャマは訊いた。
「聞き屋っていうのは全国に百人くらいいるらしいんだけど駅前とかでただただ人の話をきいてくれる人のこと。お金はとってなくてボランティアっていうか好きでそういう活動をしている人のこと。理由? 何だろう。人助けの一環なのかな。ザメさんは神奈川を中心に活動してる聞き屋でかなり人気で特にわたしよりもっと若い子たちに人気の人で」そこまでいってコゴエは笑うと雨で額に張り付いた前髪を時間をかけて直した。「ザメさんは聞き屋の中でも異端でわたしはそれはそれで救いっていうか別にそれでもいいかってずっと前からSNSで追っかけてはいたんです。ザメさんよりザメさんのことを知ってるくらいに情報を集めてでも実際に会いにいったことはなくて、いつか行こうとは思っててほんとに辛くなったら息ができなくなったらもうどうしようもなくなったら行こうって。それで今日勇気を出して藤沢まで来て」
「おれはそいつじゃない。ウジャマ」
「そう、明らかにザメさんぽくない人がいた」
二人とも声を出して笑った。暗がりの中で腕立てをする男の白いタンクトップが光を集めて仄かに浮かび上がっていた。
「え、じゃあウジャマさんはザメさんには会ってないんですか。来たときにはもう誰もいなかったんですか。ほんとに偶然ここに座ってただけ?」
ウジャマは肯いた。コゴエはしばらく黙ってウジャマを見つめていた。
「ウジャマさんって何者なんですか。ニート? ホームレス?」
「どれでもない」
「わたしとそんな歳離れてないですよね。学生? 仕事終わりの人? それか作家とか画家とか藝術家? 坊主だし。あ、お坊さん? 寺から脱獄してきた坊主? あーちょっとやばい人?」
「すべて」
「え」
「そのすべて」
コゴエが目を丸くして数秒固まった。
「ウジャマさん……相当変わってますね」左の目から涙が一滴溢れ落ちた。「なんかわたしバカみたいじゃん。わたしだけ必死こいてめっちゃバカみたいじゃん」
「それでいい。おれはバカになりたい。中々なれるもんじゃない」
「わたし、さっき仕事を辞めてきたんです。一年ちょっと働いたベンチャー企業を今日辞めてきたんです。貯金だって殆どないのに転職先も決まってないし家のガスも電気も止まってるしもう助けてくれる人もいないし絶対辞めるべきじゃなかったのにわたし辞めたんです。ほんとは入社して二日で辞めたくなってたのにずるずる先延ばしにしてそのせいで朝起きれなくなって遅刻を繰り返して皆に迷惑かけてでもそれでも辞められなくて決断するのが怖くて」コゴエは振り返って広場の風景を眺めた。「いつも同じ。一度だって最後までやり遂げられたことがなくて途中で辛くて仕方なくなっていつの間にか自分の周りに薄い膜ができる。自分で自分のロボットを操縦してるみたいに何もかもがぼんやりしてあれ今夢の中かなって思うんだけど現実で腕を切ったりお医者さんから貰ったクスリを沢山飲んでも膜が破れない。そうやってどうしようもなくなってある日ポキっと折れて全てを台無しにする。もうお馴染みのパターン。もうすぐ二十六歳になるのに何にも変わってない。ずっと流されてきてとことん受け身でそれでいて変なところは意思が固くて頑固で意固地で半分家出したまま入った大学も三年生のときに中退して当時の彼氏の家でバイトもしないで何年もダラダラ過ごして一昨年さすがにまずい彼氏とはもうずい分険悪でついに別れることになってでもわたしの行き場がないからあと一ヶ月は家にいていい頼むからコゴエはコゴエを何とかしてくれおれも手伝うからそういう彼がすごく優しくてマトモなのがかえって辛くて、でもバイトだけじゃお金足りないしあとは風俗ぐらいしかないでもそれはイヤだイヤだって二十四歳にもなって逃げ続けてきた就活をやっと始めたんだけど面白いくらいに全くうまくいかない。池袋のピンサロで二週間働いたところで就活エージェントから電話がきてやっと書類が通りました! おめでとうございます。来週の水曜日、恵比寿のドトールで一次面接です! 面接なんて生まれて初めてで頭が真っ白になって支離滅裂になってなのになぜだか受かってとんとん拍子に選考は進んでそうやって入った会社を二日で辞めたくなった。上司も同僚も皆明るくて元気で社会のこと未来のこと世界のことをハッピーにしようってどうやら本気で考えててその割には毎日飲み会でしつこく好きな体位のことを訊いてきてうざくなって適当に駅弁ですっていったら、コゴエちゃん、めっちゃエロいじゃん! やば! すごい盛り上がってヘラヘラしてたら女の先輩たちがあからさまに冷たくなった。メールの書き方から打ち合わせの段取りから取引先への対応から何もかもがダメでとにかくうまく喋れなくて営業職で採用されたのに言葉を出すのが苦手でいつもはこんなふうに詐欺師みたいにペラペラ話せてるわけじゃなくてペアを組んで仕事をすることになった三十六歳の香水臭い上司にお前今まで何して生きてきたんだよなあお前の代わりなんていくらでもいるんだよおいきいてんのかバカ女いっぱい指導されてそれでも久しぶりに一人暮らしを始めて別れた彼氏とも仲直りしてちょっと達成感に溢れてたら気がつくとその上司が家にいてそうだ飲み会の後だそのままバカみたいに何度もセックスして上司は奥さんと娘が待ってるからって早朝帰っていってその後わたしは二回吐いた」
コゴエがもう一度振り返って腕立て伏せの男を見た。男の呻き声。コゴエはタイルの床から酒缶を持ち上げると一口飲んでから膝の上に乗せた。
「そうやってだんだん無感覚になって自分が誰でどこにいるのか全部がどうでもよくなってまあこれはこれで楽だなと思ってたら今日の午後ポキって何かが折れる音が確かにきこえて身体が勝手に動いて退職届書いて出して大騒ぎになったけど無視して辞めますって外の道を歩いてた。恵比寿から新宿まで歩いてカラオケに入って好きな曲をかけて喚きに喚いて気がついたら久しぶりにぐっすり寝ててお金を払って外に出ると夜になってた。適当に歩いてたら新大久保に着いて若い子たちでいっぱいの中で一人サムギョプサルを食べながらスマホ見てあっ! 山手線で新宿に戻って東海道線に乗り換えて一時間くらいしたらここに着いてた」不意にコゴエは口をつぐんだ。「ウジャマさんわたしこれからどうしたらいいんだろう。何なんだろうわたしって」
誰も何もいわなかった。
「わたし、さっきザメさんは聞き屋の中でもかなりの異端だっていいましたよね」
「いった」
「異端っていうのはザメさんはただきくだけじゃなくてセックスまでしてくれるからなんです。最後まで残った一人を絶対に家に連れていってくれるからなんです。どんなに頭がおかしい子でもラリってる子でも何日もシャワーを浴びてない子でも等しくザメさんは優しく接してくれる。気持ち悪いし犯罪だし聞き屋なんてどうでもよくて絶対にそっち目当てで活動してるんだろうけどそれでもまあいいかって思うときがあるいつもじゃないけど思うときがある。ザメさんは弱った女性を食い物にしてるクズで前科持ちの異常者だって批判する人もいるけど実はわたしたちの方がザメさんを食い物にしてるんです。本人はそう気づいていないだろうけど」ポケットから出したハンカチで額の汗を拭いた。「わたし、時々人が怖くなるんです。誰かと向き合ってるとこの人にも親がいて友だちがいてパートナーがいていくらかは愛されて育ってきてそういう何かが相手の後ろに壁みたいに立って見えるときがある。それが迫ってくると怖くて何にもいえなくなるひどいこといわれてもすみませんすみませんって相手のいいなりになる。だってその人を否定することはその後ろにある全てを否定することになるから。でもそれがザメさんにはないんだってずっと思ってた。あ、この人の後ろには何にも見えない。会ったこともないし顔だって不鮮明な写真でしか見たことがないのにそうわかった。すみません、ずっとわたし変なこといってると思う。いつもはこうじゃない。こんなに沢山話すことなんてまずないのに」
コゴエが顔を上げ初めてウジャマの顔をちゃんと見た。
「それで、さっきウジャマさんを見て同じことを思ったんです。あ、この人もザメさんに似てる。後ろに何にも見えない。だから話しやすいのかもしれない。空っぽでちっとも怖くない。だから」酒缶をぐいと飲み干した。「よかったらこの後ウジャマさんの家に行ってもいいですか」
「家はない」
「は」
不意に弾かれたようにコゴエは立ちあがった。
「ない? え、やっぱりホームレス?」コゴエが大声を出した。「え、ウジャマさんって何なんですか! 何なの!」
ウジャマが首を傾げた。
「その人はあちこち旅してて、今たまたまここにいるだけなんだよ」
コゴエが素早く振り返った。どこからきいていたのか腕立て伏せの男が立ちあがってこちらを見ていた。コゴエはパッと向き直ると男を無視してなおもウジャマに訊いた。
「え、どっかから不法入国でもしてきたの。何かずっと日本語変だし、どこから来た」
「どこから? 覚えてない」ウジャマが微笑した。「気がつくと歩いていた。確かにおれは何なんだろうな。思ったこともなかった」
「何どういうこと? 記憶喪失? 意味がわからない」コゴエがぶつぶついった。「意味わかんない、何なの……」
「どうしたどうした。大丈夫?」
コゴエの肩に手が置かれた。ハッとしてコゴエが顔を上げた。二人の視線がぶつかった。黒光りする筋肉が短パンとタンクトップからこれでもかとはみ出ていた。男は近くで見ると思ったよりずっと整った顔立ちをしていた。
「落ち着いて。別にこの人はおかしな人なんかじゃない。ぼくが保証する」男の手が優しくコゴエの背中を撫でた。「それで、ちょうど今からうちに帰ろうとしてたんだけどもしよかったらどうかな」
男がチラッとウジャマの顔を窺った。ウジャマはそっぽを向いて駅の方を眺めていた。目の前で起こっていることへの興味を急速になくしてしまったようだった。ウジャマはポケットから四つ折りにした日記を取り出すと破かないように丁寧に開き擦り切れつつあるページに目を落とした。その頃には既に男は勃起していてコゴエの腰に手を回し二人は広場を横切って地階へと階段を降りようとしていた。二人の姿がベンチから見えなくなってから数秒後うわあと叫び声がして重い袋が下へと転げ落ちていく鈍い音がし次いでドンという衝撃が響いて何もきこえなくなった。束の間の静寂。今度は大急ぎで階段を上がってくるヒールの音がきこえコゴエがベンチに戻ってきたときにはもうウジャマも看板も椅子も姿を消し酒缶とコーチのバッグだけがその場に残されていた。空席を見てコゴエは思わず噴き出すとバッグを拾い思いっきり踵で酒缶を踏みつけ缶はクシャリときれいな円になって潰れた。コゴエは落ち着いた足取りで先ほどとは反対側の階段を降り駅前ロータリーで群れをなしていたタクシーの一台に乗り込むとタクシーはあっという間に駅から走り去っていった。雨は止みしかし星は厚い雲に隠されたままだった。二十分後、腕立ての要領で男は身を起こすとどこからも血が出ていないことを確認し痛む肩や頭をさすりながら家賃七万の棲家へと帰っていった。
続きは書籍にて
