隕石日和
2025
どんな人でも一生のうちに一冊の小説なら書くことができるというが、あれはほんとうのようでウソだ。いいか、真実はこうだ。どんな人でも一生に何冊だって小説を書くことができる。一冊だなんてみみっちいこといわず百冊だって書きゃいいんだ。いやいや書けない書けない! なんて叫ぶやつも死ぬ間際になって気づくだろうよ。あっ、ちくしょう、今なら書けるのに! ってな。
そうですか……。
さっきおれは真実っていったな。真実って言葉を使ったな。ほんとうは真実なんてもの大嫌いなのに、便利だからつい使っちまった。真実とか便利ってものほど小説から遠いものはないというのに……。
あの……もう戻っていいですか?
その前にまず、そのいかにも他人だって調子をやめろ。
もう戻っていい?
ダメだ。
よく晴れた日のこと、わたしはベランダに出て洗濯物を干していた。もうすぐ終わりというときになって、隣のベランダから窓と網戸の開く音がきこえた。わたしはぎょっとした。ベランダとベランダを区切る蹴破り戸。その向こうで隣室の住人がわたしと同じように洗濯物を干し始めたようなのだ。しかしそれはおかしい。確か隣室は空き部屋のはずだ。いや空き部屋に違いない。神に誓って。いやいやわたしはカミサマなど信じない。信じるのはこの自分だけだ。こんなふうには若いときにはとても思わなかったしそう思うようになるとも少しも思わなかった。しかしわたしはこのマンションの空き部屋事情に大変精通しているのだ。というのもわたしはヒマさえあればマンション中の空き部屋にこっそり忍び込みそこでとても人にいえないあんなことやこんなことをしているのだ。それはすごく楽しい! あー、生きていてよかった! 心からそう思うよ。わたしは息を潜めじっと蹴破り戸に見入った。ちゃちなアクリル板。不完全な仕切り。隙間からチラチラ影が動く。足音。金具の音。小さな咳払い。男の出す音。敵意はない。あくまで自然体。もう少し、もう少しで……そこにいるんだろ! 不意に男の声がして、わたしはビクリと痙攣した。今さらいないフリしたってもう遅い。まあ話そうや。男の笑い声。打って変わって柔らかい口調。なぜか微かな嫌悪感。思わずわたしは愛想笑いをしていた。普段愛想笑いなんてしないのに! 洗濯ってさ、けっこう悪くないよな。え? 洗濯だよ、洗濯。わかる? え、はい。洗濯、好きか? あー、はい、かなり好きです。そう! それでいいんだよ、それで! 続けて。え。目の前の街路樹からカラスが一羽飛び立った。
作家なの?
何が?
あなた、作家? ずっと小説の話をしてるから。
まあ待て! 待つのはいいもんだ。何でもゆっくりであればあるほどいいんだ。さて、こんな話がある。ある男が道を歩いていた。とつぜん男はばったり倒れた。背後から撃たれたみたいに。右手が熱くてたまらない。起き上がってみると右手からダラダラ血が流れている。男はひどく無口だったんだがそのときもやっぱり無口で声一つ上げずに手を閉じたり開いたりしてみた。
作家なの?
まだ話の途中だ。
あのね、あとちょっとだけ洗濯物が残ってて、これを干しながらあなたの話をきいてもいい?
いちいちそんなこと確認してくんな! せからしい! 勝手に生きろ!
今度はよくわかった。
わかればいいんだ、なんていわないよ、おれは。
わかった。あなた、ほんとうはすごく真面目なんでしょ。
男の話に戻ろう。男は長い間ぐったりと地べたに横たわっていた。何度も起き上がろうとしたがちっとも身体が動かない。指先さえも。それなのにどういうわけか少しも痛みは感じていなかった。右手が熱いそれに頭が痺れて重い。絶え間ない吐き気。男はかなり時間をかけて少しずつ身体を動かしやがて道外れを流れる小川に辿り着いた。
あれ? 男は起き上がってたんじゃなかったの。さっきはそういってたけど。
よくきいてるな……あんまり、よくきくな!
きいてない。今だってシーツを干しながらあなたと話してる。これを話してるっていっていいのかよくわかんないけど。
それはおかしい。
え?
それはおかしい。さっきおまえはあと少しだけ洗濯物が残っているといった。なのに今おまえはシーツを干している最中だという。普通シーツなんて真っ先に干すはずだ。物干し竿にはでかいものから順に干していくのがこの世の理だ。この矛盾はつまりこう説明できる。おまえはウソをついているか、あるいは普通ではないやり方で洗濯物を干しているかのどちらかなんだ。だがいちいち確認をしてくるおまえだ。そんな異様なやり方で洗濯物を干すとは考えられない。つまりおまえはシーツなんて干していないつまりおまえはウソをついているんだ!
ほんとうだよ。わたしは今シーツを干している。だって今日はシーツだけを洗濯したんだから。家中にあるシーツを。シーツだけで四枚を。他の服とか靴下は一切なし。シーツだけ。溜めに溜めてあるとき急に発散するっていうのがわたし流。
ほら、またウソをいっている! この狭いベランダではシーツを四枚干すなんてこと決してできない! 神に誓って! それにおまえは一人暮らしだからシーツを四枚も持っているというのもおかしい。
そんなことはない。工夫すれば四枚干すことだってできる。わたしはこのベランダにシーツを六枚干したこともある。それにわたしはここに四人で暮らしている。わたしと夫と子どもが二人。ずっとあなたは何かを勘違いしている。
どうやらおれが間違っていたようだ。
話を続けてくれてもいい。
男は川の冷たい流れに右手を浸した。血が黒い帯になって水の中をたなびいていった。しばらくして男は右手を水から引き上げると黙したままその手を空へと掲げた。右手を通して男の顔に陽の光が降り注いだ。男の右手の手のひらの真ん中に直径二センチくらいの穴が空いていた。男は元いた道の上に戻ってくるとくまなく辺りを探し始めた。男がついにドス黒い血に塗れたひどく重い紫色の小石を見つけた。男はそれを左手に持ち右手の穴に近づけていった。小石のカタチと穴のカタチがおもしろいくらいに一致した。男が初めて声を立てて笑ったそれは隕石だった何という偶然だ男の右手は宇宙から降ってきた隕石に貫かれた。男はその日以来見えないはずのものが見えるようになった。男は翌日長年勤めた町工場を辞め霊媒師になった。たちまち町中で評判となり数年後男の元に王の使いがやってきた。着いたとき使いは息も絶え絶えで男が抱きかかえた瞬間ウジャマと一言呟いて事切れた。いや死んでなどいなかったスヤスヤと使いは男の腕の中で眠っていただけ。どうして人間はいつもこう思ってしまうのかその後男は近いうちに王を殺すことに決めた。このとき男はそれがいとも簡単なことだと考えていたが実はそれは気が遠くなるほど困難な道のりの始まりの始まりに過ぎなかった。男の名はシェタニ。
あなたの名前は?
それよりこの話について何かきいてくれてもいい。
くれてもいいって、きいてほしくてたまらないって声を出してるけど。何カッコつけてんの。
そうだね、きいてくれるととても嬉しい。
複雑な話だったからもう殆ど忘れかけてる。何だっけ。男は村で評判の霊媒師でその村にある日突然隕石が降ってくるんだっけ。
違う、違う! そんな話じゃない! ううむ、そんなに複雑だったかな。
複雑というより、あなたはすごく早口でわたしに何か物語めいたものをきかせるならそれはそれで最低限の思いやりみたいなものをもってほしかった。
そしたらもう一回ゆっくりと話すよ。いいかな? 男は冷たい水に右手を浸した。血が黒い帯になって水の中に広がった。血の匂いに釣られて魚が集まってきた。小魚の群れ。銀色の小さな。
さっきよりはずっといい。でももう飽きちゃった。その話はつまらないわけじゃないけど、おもしろいともいえないな。少なくとも退屈はしなかった。まだシーツを干し終わってないのがその証拠。でもわたしは普段小説なんて読まないし、作家の人と会うのもこれが初めてだし。
おれは作家じゃない。
作家だって初めにいってなかったっけ?
いった覚えなんてない。しかしまあそういったようなものか。でもおれは作家じゃない。作家どころかおれはまだ何の仕事にも就いていない。それはこれからのこと。ところでおれは何歳に見えるかな?
ずっとあなたが見えてないけど。
もちろんそれはわかってる。おれだっておまえの姿が見えないよ。こうやって身を乗り出しても室外機が邪魔で見えない。それはつまり……月みたいなもんだ。
月?
空をごらん! 心地いい昼下がり。太陽が燦々と出ているから月は見えない。
ほらあなたはやっぱり作家だ。そうやってすぐに物語を始めようとする。わたしにはそもそもそういう能がない。あと余計だけど昼間にも月が見える日ってある。
話しているうちにどんどん鋭くなっていくみたいだ、おまえは。
二度とおまえって呼ばないで。すごく嫌。ずっと不快だった。やめて。
ごめんなさい。
その部屋には誰もいない。ダブルベッドが一つ。シーリングライトは消されているしかしベッド脇のサイドテーブル上のランプは煌々と点いている。時折、明滅する。掛け布団がベッドから床にずり落ちる。乱れたシーツ。水気。少ししょっぱい。豊かな真紅のカーテンはいずれも閉まっている。ランプの横に水がなみなみと入ったグラスが二つ。震え。喜びに、震える。
おれは何歳だと思う?
どうでもいい。
何歳だったら好都合?
今度はあなたの方が質問するようになってきた。あっという間に立場が変わってきた。
よしわかった。教えてやろう。おれは十八歳だ。
へえ。五十は超えていると思ってた。わたしは四十二歳。
おれはおまえ……君が普段何をしているか知っている。隅々まで知っている。ほんとうに。
いい風が吹いている。洗濯日和。そうだと思わない? 思わなくてもいい。
おれは知っている。君がしている人にはいえない口が裂けてもいえないあんなことを無数の憎悪を向けられるに違いないあんなことを血と暴力がすべて制圧するあんなことを。
タバコの匂いがしてきた。
君はうずくまる君は狼狽する君は喚く君は涙する君は諦める君は笑う君は弾ける君は走る君はさらわれる君はもがく君は静まる君は考える君は覚悟する君は微笑む君は口を閉ざす!
あ、タマムシ。
え。
あはは、やっとこっちを向いてくれた。
どうしてわかった。
なんか、わかった。理由とかない。
…………。
ねえ。
何。
ねえ。
何!
ねえ。話を続けてくれてもいい。
そうくると思わなくて、ちょっと面食らったな。
それならわたしが代わりに話す。今ならできる気がする。こんなの初めて。やってみる。あなたはついに村を出る。頭の上に因縁の隕石を担いで。シシュポスの何とかみたいに。あんなに重い石を担いで二十四時間過ごすなんてそれはもう死ぬより辛いことしかもあなたはそうしながら王をやっつけにいかなくてはならない。流石に無謀。無策の極み。それでもあなたは一歩ずつ歩を進める。草原を山間を砂漠を湖を越えあなたはついに王の国の国境地帯まで辿り着く。あなたはもう十八歳ではない八十一歳になっている。当たり前だがとっくの昔に王は寿命で死んでいる。あなたはそのことを知ってるのか知らないのか。あなたの身体もとうに縮んだ。シワだらけの黒ずんだ棒。あんなに重い巨石なんてとても持てない。だからそうあなたに合わせ石もまた縮んでいる。今はもう塩粒よりも小さい。持っているのか傍目にまるで判別つかないほど。あなたは宿屋のベッドに座り窓の外の曇り空を眺める。真っ黒い雲。遠雷。今にも大粒の雨が降ってきそう。あなたはしばらくじっとしている。不意に大笑いする。ゆっくり立ち上がる。小石を片手にあなたは宿屋を出ていく。もう待ちくたびれた。待つのはやめだ。あなたが飛び立つ。呼吸。銀の羽ばたき。あなたが飛び立つ。やっとあなたは生き続ける。
……もういいかな? 戻っても。
返事がない。あれだけ喚いてたのに自分が先に帰ってしまったの?
ちょっと待ってみる自分がバカみたい。わたしって実は優しいんだ。
はい。今最後のシーツを干し終わった。これで全部オシマイ。
そのときなのだ。
え!!
さっきまで晴れていたはずなのに雲一つなかったのにいつの間にかに辺りがすごく暗い風が吹き荒ぶ横殴りの雨どしゃぶり豪雨何かが降ってくる何かが降ってくる何かが、
……ハロー……ハロー。
え。
ハロー クレイジー ガール!
え、誰? 外国人?
ヘイ クレイジー ガール イン ザ レイン。ドゥー ユー スピーク イングリッシュ?
英語? 少しなら話せる。
オーケー ナイス。アイム ベリー ハッピー トゥー ミーチュー!
誰かが、やってきた。
